一般に、我々がなじみ深いハリウッド映画では、ハッピーエンドにせよ悲劇的結末にせよ、映画制作者側が視聴者にある程度明瞭に結論を提示するものが多い。そんな中で、この作品は、主人公のアマロ神父が、果たして今後どんな人生を歩むのか、どのような決断をするのか、分からないままに幕を閉じる。いわば視聴者に考えさせようとする作品なのだ。視聴者は、これまでのストーリーを通して、自分がアマロになったつもりで結論をどうすべきか考えることができる。映画の中とはいえ、自分の道徳観や人生観が問われる、地味ながらも語るところの多い作品だ。
「アモーレス・ペロス」「天国の口、終わりの楽園」に肩を並べる秀作メキシコ映画おすすめ度
★★★★★
メキシコの小さな町の教会へと赴任してきた若き神父アマロ。教会の主であるベニート神父は食堂の主人サンフアネラを愛人としていた。その娘アメリアは熱心な信者であり、信仰心の足りない恋人の新聞記者ルベーンに愛想をつかしている。
やがてルベーンが、ベニート神父と麻薬王の関係や、別の神父ナタリオが解放の神学派としてゲリラ支援をしていることを記事にしたことから、信者の間にさざ波が立ち始める。その渦中でアマロ神父もアメリアとの間で後戻りの出来ない事件を起こしてしまい…。
聖職者と信者との肉欲、堕胎、社会的抑圧を受ける貧困層との踏み込んだ連帯、結果的に資金洗浄に荷担することになる病院建設。こうした行ないは、教会と信仰とに生活の拠り所を見る人々にとって、また仏教徒である私にとっても、肯んじえないものです。
しかしこの物語とともに歩むと、彼らの行ないを「罪」として一刀両断することが、あまりに一面的な物の見方ではないかと思い始めます。彼らのそれぞれの行ないの根にあるものが観る側の心にないと真に言えるのか。
そして私は、姦淫の罪で律法学者とパリサイ人によって引き出された女を前にキリストが語った「汝らの中で罪なきものがまずこの女に石を投げよ」という言葉(ヨハネの福音書8:7)のことを思うのです。
人間は自らが築いた社会制度の中で生きる者です。その制度の中での位置を維持する過程で取り繕いを重ね、時に悲劇を生んでしまいます。決して言い訳は出来ませんが、人間はそんな脆さがあるからこそ人間的であるといえる、哀しき存在なのです。
アマロはこの先の人生で「罪」に対する呵責とどう向きあっていくのでしょうか。
見終わった時に、アマロ神父を「うまくやった奴」とは決して見ていない私自身を発見しました。ガエル・ガルシア・ベルナルの他の主演映画同様、これもまた、人生のままならさを味わう映画なのです。
すばらしい
おすすめ度 ★★★★★
これが発売されるのを心待ちにしていました
。TOP100ランキングに入っているのでご存知の方も多いと思いますが、
すばらしいものだと感じましたので☆5評価としました。
概要
司祭から期待されている新人神父のアマロは、ローマへ修行に出る前に見習いとして、メキシコの小さな町の教会に派遣される。強欲な神父たちの金の取引きを知りつつも、権力に逆らえないアマロ。そんな中、彼は16歳の少女と禁断の愛を交わしてしまう。
教会の不正や堕落と神父と少女の愛を描いた本作は、メキシコ、アメリカでは上映禁止を求める声が上がったという問題作。政界の汚職以上に聖なる場所である教会の汚職を描いた本作はショッキングだ。そして将来を嘱望された神父が、その誘惑に落ちていく姿は、神父といえど人間、その弱さは若さか人間性かと、考えさせられる。苦悩しつつ落ちていくアマロを演じたのは『アモーレス・ペロス』でスター俳優になったガエル・ガルシア・ベルナル。気高く美しいアマロが、教会の不正にかかわり、少女を傷つけて、表情が歪んでいく様は見事だ。(斎藤 香)